トップ >> ザ・コレクション >> 汽車茶瓶・汽車土瓶(6)
ザ・コレクション 旅でお茶を一服 汽車茶瓶・汽車土瓶
《その6》

汽車茶瓶・汽車土瓶の生産地
汽車茶瓶・汽車土瓶は全国のあちこちで生産されていました。
ここでは代表的な産地をご紹介します。

●益子焼(栃木県)
 益子焼では初期の汽車土瓶として利用されていた「梅絵」の土瓶が有名です。
益子焼の汽車土瓶は明治末期に、東海道線静岡以東、上信越、関東、東北、北海道の広範囲にわたって供給されていました。ろくろ挽きの土瓶をつくり続けていましたが、他産地の鋳込による大量生産に太刀打ちできず、昭和初期には生産を断念したと考えられています。
photo
photo
●信楽焼(滋賀県)
 信楽は汽車土瓶発祥の地といわれています。明治20年代に当時流行していた山水土瓶を汽車土瓶として利用していました。大正13年に選定された標語「お茶は静岡・山は富士」を入れた静岡駅の汽車土瓶は、信楽産のものでした。信楽では角形の汽車茶瓶が登場しても、一貫して汽車土瓶を昭和40年頃まで生産していました。

●瀬戸焼(愛知県)
 瀬戸の製品は昭和初期に、国内の生産量の中で比較的大きな比重を占めていました。このため現在でも瀬戸産の物は多く残っています。この時期のものには「鉄道局指定」と記されたものが多くみられます。昭和30年頃には磁器の鋳込み製品も生産され、各駅の名物を象った製品も多く作られました。

●美濃焼(岐阜県)
 美濃焼では明治後期から生産が始まったのでは、といわれています。昭和初期には販売店名を入れた物や鉄道の「動輪マーク」を印したものなどがつくられ、これは他産地にも影響を与えます。昭和30年頃には瀬戸と同様、名物にちなんだ物がつくられていました。現在販売されている、小淵沢駅の汽車茶瓶もこの美濃焼です。

●白石焼(佐賀県)
 白石焼による生産は明治後半から昭和50年頃までに及びます。白石焼の製品には、現在残っている鋳込み製の茶瓶で最も大きいものがあります。現在、白石焼作家として活躍している佐藤華祐さんのお話によると「昭和40年頃は汽車土瓶の生産で、私たちはご飯を食べ学校に行けたものです。」ということでした。

こぼれ話  お茶入れがやきものだったとすれば、お弁当箱にもやきものがあったのでは?と探してみるとありました。これは磁器製染付の三重お弁当箱で蓋と胴部分に鉄道の「動輪マーク」が描かれています。また「下関」と駅名も入っています。裏側には「下関食堂」と販売店名が入っています。なんだかちょっと贅沢なお弁当箱ですね。
弁当箱 磁器製お弁当箱
年代不詳
C志田焼資料館所蔵
その5へ
資料提供先(順不同)
■窯業史博物館 栃木県那須郡馬頭町小砂3112 電話0287-93-0711
■志田焼資料館 佐賀県藤津郡塩田町久間乙3242-3 電話09546-6-2202
※このコーナーは窯業史博物館・信楽窯業技術試験場より提供して頂いた資料をもとに構成しています。
Copyright(C)2002 Fukuhaku Printing CO.,LTD
このサイト内の文章や画像を無断転載することを禁じます