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ヨーロッパ





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■染付花盆文髭皿
(そめつけかぼんもんひげさら)
オランダ・デフルト
18世紀前半
C佐賀県立九州陶磁文化館所蔵







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■色絵梅竹虎文大皿
(いろえうめたけとらもんおおざら)
ドイツ・マイセン窯
1774〜1815年頃
C佐賀県立九州陶磁文化館所蔵



















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■色絵唐草花文象置物
(いろえからくさはなもんぞうおきもの)
フランス・シャンティイ窯
1725〜1800年頃
C佐賀県立九州陶磁文化館所蔵














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■色絵花鳥文六角壺
(いろえかちょうもんろっかくつぼ)
イギリス・チェルシー窯
18世紀中葉
C佐賀県立九州陶磁文化館所蔵

 
ヨーロッパの陶磁器
(オランダ・ドイツ・フランス・イギリス)

コピー
 17世紀の中ごろ、中国や日本と開港して貿易権を独占し、東洋の磁器をヨーロッパにもたらしたのがオランダです。東洋の磁器はそれまでヨーロッパで焼成されていた陶器に比べて薄手で透明感があり、王侯貴族たちは「人工の宝石」として争うようにこれを求め、珍重しました。陶都デルフトでは、高価な舶来品である東洋磁器の形や装飾を陶器で模倣することに着目。中国明時代の染付(そめつけ)柿右衛門などを模倣した陶器はヨーロッパ各地で絶大な人気を博し、近隣の他の窯でもこれを実践するようになると以後オランダで焼かれる陶器はすべてデルフト焼と呼ばれるようになりました。
 写真の「染付花盆文鬚皿(そめつけかぼんもんひげざら)」は18世紀前半に作られた有田の製品をデルフト陶器で写したものです。この器形はヨーロッパで鬚を剃るときに使われることから鬚皿と呼ばれていますが、有田では輸出用に作られていました。

コピー
 東洋磁器の収集が支配者の財力と高尚な趣味の象徴であった当時、その収集熱が高まるにつれ次第に自国で磁器を焼成しようとする気運がヨーロッパで高まっていきました。その悲願を達成したのがドイツのマイセン窯です。1709年、東洋磁器の大コレクターで知られるアウグストス“強健王”のもと、錬金術師のフリードリヒ・ベットガーがヨーロッパ初の白色磁器焼成の偉業を成し遂げました。翌年にはアルブレヒッブルク城内に王位磁器窯が設立され、ベットガーに助手を与えての本格的な磁器製造が始まります。一方で王は磁器焼成の秘法の漏洩(ろうえい)を恐れて職人たちを厳しい監視下に置き、ベットガーはまるで“囚人”のような暮らしを強いられることとなりました。しかし、その苦労も虚しく秘法はまたたく間にヨーロッパ全土に伝播していったのです。
 マイセン窯では、1720年ごろに色絵の焼成にも成功すると、ヨーロッパ人の憧れである柿右衛門様式色絵磁器を模倣して大量に色絵磁器を生産し、ヨーロッパ各地に柿右衛門様式を広めました。柿右衛門様式の竹虎文を写した『色絵梅竹虎文大皿(いろえうめたけとらもんおおざら)』は、マイセン窯初期にあたる1730年代から製作されたものです。

コピー
 フランスでは、1725年に開窯したシャンティイ窯が柿右衛門様式の優れたコピー製品を生み出したことで注目されます。写真の「色絵唐草花文象置物(いろえからくさはなもんぞうおきもの)」は有田製の像置物に創意を加えた作品ですが、背の敷物の柄以外は有田製のものと相違する点がいくつかみられます。シャンティイ窯で技法を身に付けたデュボア兄弟が、国王からの巨額な資金を得て1738年に開窯した工房がヴァンサンヌ窯です。この工房は、優れた人材とルイ15世の愛妾(あいしょう)ポンパドール夫人のもと王立窯として機能を果たすようになります。美に対して執拗なほど愛着を示し、中でも磁器に熱狂したポンパドールは、ヴァンサンヌ窯を「王立製陶所」とし、その維持に莫大な国家費用を裂きました。さらに自宅付近のセーブルに窯を移して「フランス王立セーブル磁器製作所」を開設。セーブル窯は、軟質磁器特有のやわらかく気品ある色使いで優美な磁器を数多く生み出し、それらは王宮の調度品や王侯貴族の贈答品として供されました。
 1789年のフランス革命によりセーブル窯は一時閉窯するものの、ナポレオンにより「国立セーブル磁器製作所」として再興され、今日に至っています。

コピー
 イギリスは18世紀、新と旧、技術の改良と発展、開窯と閉窯が繰り返され窯業界は激動の時代を迎えます。なかでも中世以来の陶都スタッフォードシャーのウェッジウッドは技術改良や機械化により庶民向け価格での陶器製造を可能にし、海外にも市場を広げた他、美術陶器も手がけ大成功をおさめました。一方、1740年後半に開窯し、「色絵花鳥文六角壷(いろえかちょうもんろっかくつぼ)」など柿右衛門写しの磁器を現在に残したチェルシー窯やボウ窯は、この世紀のうちに閉窯の運命をたどってしまいます。しかし、ボウ窯では1748年、トーマス・フライが磁器の胎土に骨灰を混ぜることでボーンチャイナの焼成に成功。後の胎土の改良などによりボーンチャイナはイギリス独自のものとして19世紀イギリスのテーブルウェアの主役となりました。そして産業革命を達成したイギリスは、作陶のめざましい技術革新のもとヨーロッパやきものの大生産地となるのです。

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