秋季企画展
青花と白磁展
<会期>平成16年10月1日(金)〜12月23日(木)
 朝鮮時代は1392年から1910年までの王朝である。およそ一貫して、倹約を美徳とする風潮の強い社会であった。それを如実に表しているのが白磁の隆盛である。朝鮮王朝を通して、それは連綿と焼かれ、やがて時代が下がるにつれ、人々の生活容器として使用されるようになった。それとともに「もてなしの器」としての役割を担っていたのが青花である。この二種のやきものは、まさに朝鮮時代の文化の象徴といえるであろう。この度の企画展では、それらを通して、朝鮮美術の特色と文化・歴史の一端を観ようとするものである。
 朝鮮時代のやきものの歴史は次の四期に分けるのが妥当であろう。十四世紀末期から十六世紀末期までの「前期」、十七世紀から1751年までの「中期」、1752年から1883年までの「後期」、そして1884年以降の「末期」である。
 前期は王朝草創期から十六世紀末の壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)までである。この時期の特色は、官窯のやきものに変化が認められることである。すなわち高麗の技法を受け継いだ「粉青」から「白磁」へと官窯・御器(国王専用器)が替わり、そして「青花」の製造に苦心を重ねてきた。白磁製造の起点は1425年に求められる。そして、1447年、文昭殿や輝徳殿という宮殿で、正式に白磁が用いられるようになった。ところが青花は1463年5月に初めて、それらしきものの製造に成功したものの、それは一時的なもので、ようやく製造法を確立したのは1478年のことであった。
 中期は、倭乱終結後、清からの侵攻に悩まされつつも、王朝の秩序と体制を立て直そうと努力した時代である。青花は中国の混乱(明の衰退、清の台頭)のため、原料であるコバルト(回回青)が入手できず、やむなく「仮画」として、鉄砂で文様を画いたやきもの(龍文壷)を代用とした。やがて中国において、民が滅びて清の覇権があまねくと、東アジアの国際政治上も安定をみせ、西アジアを経由して、コバルトが朝鮮に入るようになった。しかし、それはあくまでも清との「公貿易」の賜物であり、青花は貴重品であることには変わりなかった。コバルトの節約をしつつも余白の空間を活かした「秋草手」と称される朝鮮独自の青花はこのころのものである。
 後期は、王宮専用の磁器を焼く官窯を広州・分院里に定着させたことで、「分院時代」とも称される時代である。それは官窯が民営化される1883年まで続いた。それまではやきものを焼く燃料となる柴(松坂子)を求めて、広州一帯に窯を移動させていたが、それ以降は窯を固定化させ、燃料自体を分院里に運ぶようになった。そして、注目すべきことは、白磁や青花の売買を許可したことである。通例、分院官窯では春・秋の二回、進上のための白磁や青花を焼いていた。官窯の専業陶工たちは一定数(およそ12000〜13000個)を納品したあとは春・秋、各一回に限り、市場での売買にかけ、生活費に充てることが可能となった。このことによって、白磁や青花は貴族層の什器としても使用されるようになったのである。
 そして、末期は1884年以降の民営時代である。政治的には1910年に、朝鮮王国は滅んだ。しかし、やきものを中心とする歴史からすれば、「李朝」という名で呼ばれる時期は、それ以降も存続したといえるであろう。謂わば、末期は「民営李朝」の時代であった。速筆的な青花や提灯形の白磁などもまた造られた。
 朝鮮のやきものの特色を言うならば、それは造った物ではなく、「生まれ出たもの」だと言えるであろう。造ろうと意識すれば、そこに「作為」が生じるものである。この企画展において、「作為のない世界」というものを感じとって頂ければ幸いである。

会場 (財)高麗美術館
住所 〒603-8108 京都府京都市北区紫竹上岸町15番地
電話 075-491-1192
入館料 一般500円/大高生400円/小中生300円
※20名以上の場合は2割引
交 通 JR京都駅から市バス(9)、京阪三条から市バス(4)(37)→「加茂川中学前」下車すぐ
休館日 毎週月曜日
開館時間 10:00〜17:00(入館は16:30まで)
URL http://www.koryomuseum.or.jp/