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梶原茂弘氏
有限会社しん窯 代表取締役社長
寺内信二氏
有限会社李荘窯業所 代表取締役
今村堅一氏
株式会社陶悦窯 窯主
橋口博之氏
有限会社しん窯 取締役工房長、伝統工芸士

― 柴田コレクションの複製品である「ミュージアムレプリカ」の製作に携われた15窯元のうちから4名の方々に代表としてお集まりいただきました。今日は皆様に製作に携われた時の苦労話や、その成果についてお話しいただきたいと思います。
先ずは、製作に携わることになった経緯からお聞かせください。


梶原氏 ひところ、売れるものがいいものという考えが広がり、それが嵩じて売れればいいということで、効率化が優先されていました。しかし、職人のこだわりもあり、本当にいいものを作りたい、という想いも持ち続けていました。そのような時に、柴田先生がコレクションを寄贈され、先達の心の入った器を一堂に見ることができ、作り手として共感できるところ多かったですね。
うちの職人には、贋物的な複製でなく、今の技術を使って、どこまでも本物に近づけるよう勉強して、技術に自信と誇りをもってほしいという思いで参加しました。

寺内氏 うちの窯は李参平が住んでいた所にあるので、もともと古伊万里に興味があり、窯業技術センターで初期伊万里の研究をしたり、柴田さんが基調講演をされた古伊万里研究会にも参加していたんですよ。ちょうど古伊万里研究会が終わった頃に、レプリカ製作の話しがあり、実際に古伊万里に触れて勉強ができるならと、一番に手を挙げました。

今村氏 私は有田窯業大学校を出て、ドイツに留学をして帰ってきたばかりの時でしたね。そのころは有田焼のことを余り知らず、どきどきしながら参加しました。私は青磁と瑠璃釉の陽刻がある猪口を選んだんですが、柴田先生から「どうしてそれを選んだの?」と聞かれて、「かわいいから」と答えたんですよ。うちでは絵付けをあまりしないんで、釉薬だけなら何とかなるんじゃないかと考えました。

― ここに当時の参加・製作条件を書いた資料があります。それによると原型をオリジナル製法にて製作できること、陶石の指定、無鉛の上絵具を使用、焼成時間の指定などがあります。現代の材料・技術をもって複製するという、難しい挑戦をなさったわけですが、どういうところにご苦労があったのでしょうか。

今村氏 先ず私の場合は型をつくるために、九陶にある本物の唐草文の陽刻にタバコの透明のフィルムを押し当ててトレースをしました。それとサイズを測って設計図を起こして、トレースと一緒に型屋さんに渡したんですが、陽刻の深さや彫の入り方が違って上がってきたので、結局自分のところで作ったんですよ。

寺内氏 うちも幾つかは型屋さんに頼んだのですが、通常の注文のつけ方とは違うので、何でそんなことをするのかと言われもしましたが、無理を言いながらも、連係してやりました。

橋口氏 うちの場合は、型屋さんもこの企画を意気に感じてもらったおかげで、型は2回の試作でOKがでました。重さもピッタリでした。

今村氏 でも、ある時、型の話しになった時に、柴田先生から「型もできないようでは窯焼ではない」と厳しく言われましたね。

寺内氏 そうそう、そういうこともあったね。

今村氏 型ができる云々ではなく、あの時柴田先生は作る側の姿勢を言われたような気がしますね。

寺内氏 うちで染付丸繋文八角猪口を作ったときは、ロクロでひいた後に型打ちして、その後にしのぎの削りを少しずつ入れていったんですが、柴田先生から柔らかいときに一気に削るように言われ、「できません!」と言ってしまいました。何度かやってみたんですが、無理でしたね。当時の土だとできたかもしれないですが、ひょっとすると削る道具が違うのかも知れないと思って探しはしたんですが、見つけられなかったですね。

橋口氏 フォルムで勉強になったのが、うちが選んだ染付波桜花散文隅入長皿は高台の四辺の角度が微妙に違っていたんですよ。だからゆがみがでているんですが、フォルムはピシッと決めているんですよ。こういう技術には驚きましたね。

― 型作りやフォルムにしても、それぞれでご苦労があったようですが、絵付けでご苦労された点は何でしょうか。

橋口氏 染付の塗りを有田では濃み(だみ)と言うんですが、この濃みの濃淡がむずかしかったですね。本物は濃みのムラがなく均一に塗られていました。通常、途中で筆を止めると、必ず止めたところにはムラができてしまいます。これを解決するのに試行錯誤しました。濃みは女性の職人さんがやるんですが、一緒に九陶へ出かけて何度も本物を見ました。そして最終的には、呉須の色を薄くして何回も塗り重ねることで再現できたと思います。

寺内氏 江戸期のものは呉須の滲みや色の深みが違うんですよ。今の絵具はピュアな原料なんですよ。ところがこのピュアな原料を幾ら組み合わせても色の幅がでないし、深みがでてこない。たぶん、昔の絵具にはいろんな不純物が入っていたし、焼成のときも灰などが被ってあのような深みのある色になったと思いますね。また土も影響していますね。
昔の陶片の断面を電子顕微鏡でも見てみましたが、意外にも昔のものは上薬に気泡があるんですね。そしてその中に呉須が染みこんでいました。この染みこみも色の深みをつくっている要因でしょうね。

橋口氏 上絵具は無鉛を使うことになっていたのですが、鉛が入っている絵具と比べると発色と光沢が敵わないんですよ。うちの場合は上絵の部分が小さくて、目立たなかったので助かりましたが…。

寺内氏 そう、あの時はまだ無鉛の絵具が余り普及していない時でしたから、赤や緑は深みがでなかったですね。原料の擂り時間を変えたり、爪楊枝の先っぽにちょっと付けて配合を工夫したりしましたよ。
それと、筆もそうですね。うちの昔からいる職人さんも「いい筆がなくなった」といいますが、昔は有田にも筆屋さんがいて、いろいろ工夫をして腰のいい筆を作っていたらしいです。
また、その筆の使い方でも違ってきますね。私たちはエンピツの文化でしょう。だから筆の持ち方がエンピツと同じで固定して描きますよね。ところが昔の人は筆を宙に持ちながら、手首を動かして線を描いていたわけですから、筆運びが違うんですよ。そしたら絵のタッチも違ってしまい、柴田先生から「このタッチの葉っぱは江戸期にはなかったね」と言われてしまいました。

― 現代にできた新種の葉っぱということでしょうか。
では、次に釉薬についてはいかがでしたでしょうか。


今村氏 うちは150種類ぐらいテストしましたね。原料のちょっとした配合の違いで全然違ってきますからね。でも、そこまでやらないと物づくりをやってはいけないということを学びましたね。厳しかったですね。

寺内氏 釉薬の原料の擂り方とか、動かしたときの擦れ方、原料どうしの混ぜるタイミングなどでも変わってきますから、大変だったと思いますよ。フルイの目も今と昔は違いますからね。今のはキチッとしているので、目より大きいものは通さないけど、昔のは多少アバウトな大きさが混じったと思いますね。

橋口氏 陰刻と陽刻とが一緒に入っている白磁陽刻竹鳥文輪花皿もつくったんですが、これは釉調がむずかしかったですね。本物は黄色っぽい色なんですが、そこに近づけるのに苦労しました。それと、口縁に塗る銹(さび)釉には苦労しています。銹釉を盛るとこんもりとなるんですが、柴田先生からはシャープにと指摘を受けましたが、これは今だに近づけていないですね。

― 工程としては次に最後の焼成となりますが、焼成する窯と火の燃料が今と昔では全然違いますので、当然そこには大変なご苦労があったのではないですか。

梶原氏 うちでは陶芸教室を開いていて、生徒さんたちの作品を登り窯で焼いていますが、変化に富んだ、味わいのあるものが出来あがるんですが、商品を焼くには効率が悪すぎるという欠点があります。だから勉強としてやるのであれば登り窯でもいいでしょうが、商売として、あるいは今後技術を活かしていくということであれば、今の設備を使ってどう近づけるかが大事でしょうね。

寺内氏 私も以前、薪窯で焼いたことがあるんですが、結構いい色がでるんですよ。同じ呉須を使っていても、ガスと薪では全く違った発色をするんですね。今は還元炎焼成でやっているんですが、江戸時代は還元炎と酸化炎を繰り返しながら温度を上げていく方法をとっていたんですよ。今のガス窯でそれをやると、窯に入っているものを全てだめにする可能性が高いですね。焼成は大きな問題で、今でも残っていますね。

今村氏 わたしもこれに参加して、登り窯がほしいなと思って土地を買ったんです。まだ出来てないですが、窯から火が噴きだす時は、何とも言えずいいですよね。

寺内氏 窯焚きには憧れがありますね。今私たちがやっているのはガスでの窯焼きなんですよ。薪を焚く窯焚き、言葉の響きもいいですね。

― ここまで工程ごとにご苦労されたことをお話しいただきましたが、全体を通してお感じになったことなどがございましたら、お聞かせください。

今村氏 私の場合は重さのことを結構いわれました。あの猪口で5グラム差というのはむずかしかったですね。それ以外でも技術的な指導を受けました。そして、言われたことをいろいろと考えましたが、技術的な指導の裏には、普段の作り手の姿勢を言われているような気がしていました。

寺内氏 柴田先生に認められたら、窯焼きとして認められたということなんだという思いがありましたね。

― 柴田さんから皆さんは色々な指導などを受けられていますが、定期的に皆さんが集まって会議などをされたのでしょうか。

今村氏 ええ、でも会議は和やかな雰囲気ではなかったですね。一品一品チェックがはいるので、緊張の連続でした。

橋口氏 それまでメーカー同士で競い合う場が少なかったから、あの時はお互いの技術で勝負するんだという刺激がありましたね。そして、自分の技術のレベルが確認できましたね。
それと、実際に本物を触ってみていろいろなことがわかってきました。最初に驚いたことが、持ってみると“軽い”ということです。

寺内氏 そう、柴田先生は手取りの軽さということをよく言われていましたね。生地の肉どりや上薬をどのくらいかけるかで重心の位置が変わり、それで重さまで違って感じられますからね。

橋口氏 それと、食べやすく作られているな、ということが手に取ってみてわかりました。だから、この器をつくる時には、明確なターゲットが見えていて、どう使われるか、そのためにはどういう作りにして、どこにどう絵付けをするか、といったことまでプロデュースした人がいたんではないかと思いました。

今村氏 私は結構いろいろと柴田先生に技術的なことを言われましたが、先にも言ったとおり、その奥にある物づくりの姿勢を指摘されたと同時に、品質表示に対応できる基礎をつくられたかったのかなと思います。

寺内氏 うん、そうだね。それと他産地との差別化を図るためでもあったと思いますよ。

― では最後に、皆さんがレプリカ製作で得られたもの、財産とされているものがございましたらお聞かせください。

今村氏 それまでは有田に心がいかなかったんですが、有田を見ることを教えられました。地元にはこんなにいい財産があるじゃないかと教えていただきました。もし柴田コレクションが今後、明治や昭和期のコレクションと続くのであれば、平成のコレクションに自分も入りたいという気持ちでつくっています。

橋口氏 私は目の前にレプリカのサンプルを置いて仕事をしています。そして、走りすぎた時の戒めにしています。いわゆるバイブル的な存在ですね。それと、江戸期もそうでしたが、有田焼はたくさんの職人さんのチームプレーでつくられています。技術をもった職人さんにもっとスポットが当たるようになってほしいですね。

寺内氏 一つのものに取り組む姿勢とこだわりを教えていただきました。これがあって初めてうちの染付磁器がある。ここがスタートという想いですね。それと、悩んでいるときなど柴田先生だったらどうするかな? と考えるようになりましたね。究極のラーメン鉢を作っていた時も、聞いてみたいなと何度も思いました。ご病床だったので行かなかったのですが、でも後で聞いた話しでは、柴田先生にラーメン鉢の成功を喜んでいただけたということを聞いて、本当にうれしかったですね。

今村氏・橋口氏 そうですか、それはうれしいですね。

― 本日は、レプリカ製作に携われた皆さんの貴重なお話が聞けて幸せでした。職人さんのスピリットを感じることができました。ありがとうございました。


※レプリカ作品写真提供:大有田焼振興協同組合
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